病いのギャップ(第1回) 〜シミュレーション自己とリアル自己とのギャップに関する考察〜
最近考えている,病気と健康,そして自己−身体についての暫定的なメモを書いておきます。
はじめに
50歳を過ぎてから大きな病気を2回患いました。2014年の小脳梗塞と2016年の胸腺腫瘍です。幸い2014年のときは安静とリハビリテーションで、2016年のときは手術と放射線療法で今日まで大きな後遺症や再発もなく経過しました。
しかし2014年のときは、身体的に大変な苦しみを味わいました。そして2016年のときは、精神的に非常に危機的な状態に陥りました。
手術から5年たち,60歳にならんとするいま,これらの体験から自分なりに得られた病気ー健康ー自己ー身体など諸々にまつわる見解みたいなものを,大雑把にテキスト化したいと思い立ちました。かなり粗いまとめなので,後日精緻化できればと考えています。
これから急性疾患,慢性疾患(生活習慣病),がんのうつ,について分けて考えていきます。まずは急性疾患から。
【第1章 急性疾患(急性の病気】)
<シミュレートしないネコ,シミュレートするヒト>
わたしの家には,2匹のネコがいます。そのうち1匹は短足のマンチカンなのですが,キャットタワーに登って,別のキャットタワーに飛び移るとかならず後ろ足が乗らなくて落ちそうになるのです。なので先日2本のタワーの間をやや狭めたんですが,今度は飛びすぎて向こう側に落ちそうになる始末です。うちのネコが時に問題なのかもしれませんが,彼を見ていると,常々「人間というのは,こうすればこうなるというシミュレーションができてよかったなあ」と思うのです。
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは,ホモ・サピエンスの繁栄は言葉を使って想像上の現実(=虚構)を生み出す能力によってもたらされたとものだと喝破しました1)。哲学者ダニエル・デネットは。人間は「ポパー型生物」,すわわちシミュレーション=思考実験によって学習できる心の持ち主だとの論理を構築しました2)。心理学者エドワード・ヒギンズは「自己」を,今現在の「現実自己」,そうありたい自己としての「理想自己」そうあらねばならない自己としての「義務自己」の3種類に分類しました3)。さらに最近の脳科学の先端を行く「予測誤差最小化理論」によれば,脳は,「ああなりたいな」という期待や,「ああなるだろう」という予測と現実との誤差(予測誤差)を最小化するよう,脳内のモデルを逐次改定してくものとして説明されています4)。
これらはいずれも,「人間は”いま・ここ”にないものについて考えられる」という一大特性を持っていることにその来歴があります。人間はネコとは違って,こうしたらこうなる,将来はこうなる,あるいはこうありたいというシミュレーションができるのです。これが人間の思考の最大の特徴のひとつなのです。
<身体としての自己,意識/精神としての自己>
このことを病気と絡めて考えてみます。普段健康なときは,とくにきっかけがないかぎり,”いま・ここ”にある身体としての自己(身体としての自己)と,意識/精神としての自己(意識と精神は同一のものではなく,かなり粗いくくりですがあえて身体と対比する意味でこう称しておきます)とはピッタリ重なっています。というより特に必要がないので,リアル身体は意識/精神としての自己に隠れて見えないと言ってもいいかもしれません(図1A)。
<急性期〜亜急性期(発症から数日後くらい)>
ところが,一旦急性の病気になったとき,例えばわたしの場合は「椎骨動脈解離による小脳梗塞」だったのですが,発症直後は突然高速ジェットコースターに乗ったようなめまいと吐き気の連続に襲われました。この瞬間から,普段ほとんど意識することのなかった身体が突然存在を主張するようになります(リアル身体と名付けます)。哲学者,岸見一郎氏5)が形容したように「わたし」の中に,自分の思い通りにならない「他者」としての身体が顔を見せ,自分と身体の間とに「ギャップ」が生じたのです(図1B)。その後数日間,めまい,吐き気の嵐のため意識とリアル身体の区別がつかない混沌のフェーズ(図1C)と,症状が小康状態のときは他者として身体を捉えられるフェーズ(図1B)との反復の日々が続きました。
そして数日後,ようやく少し食事が摂れて図1Bのフェーズの方に安定した頃,まずやってきたのは「なぜ自分が,ほかでもないこの自分が,こんな病気になってしまったのだろう」という「不条理」感でした。そして同時に思い通りに食事を摂ることも,さらには排泄することさえできないという「身体的不自由」を切実に感じました。もうひとつ,このままでは医師としての仕事ができない,自分の所属する医療施設の活動が十分にできなくなってしまうという「社会的不自由」も深刻なものでした
<不条理と不自由>
これらの不条理感,不自由感は,どこから来るのでしょうか。
このフェーズに至って意識/精神としての自己は,”いま・ここ”にないバーチャルな身体を頭の中にシミュレーションします。ただシミュレートと言っても,今までこうだったという健康なときの「いつもの身体」を思い出すのです。そしてこのリアル身体とシミュレーション身体P(PositiveのP)とのギャップから不条理感,不自由感が析出してくるのです(図2)。
はじめに
50歳を過ぎてから大きな病気を2回患いました。2014年の小脳梗塞と2016年の胸腺腫瘍です。幸い2014年のときは安静とリハビリテーションで、2016年のときは手術と放射線療法で今日まで大きな後遺症や再発もなく経過しました。
しかし2014年のときは、身体的に大変な苦しみを味わいました。そして2016年のときは、精神的に非常に危機的な状態に陥りました。
手術から5年たち,60歳にならんとするいま,これらの体験から自分なりに得られた病気ー健康ー自己ー身体など諸々にまつわる見解みたいなものを,大雑把にテキスト化したいと思い立ちました。かなり粗いまとめなので,後日精緻化できればと考えています。
これから急性疾患,慢性疾患(生活習慣病),がんのうつ,について分けて考えていきます。まずは急性疾患から。
【第1章 急性疾患(急性の病気】)
<シミュレートしないネコ,シミュレートするヒト>
わたしの家には,2匹のネコがいます。そのうち1匹は短足のマンチカンなのですが,キャットタワーに登って,別のキャットタワーに飛び移るとかならず後ろ足が乗らなくて落ちそうになるのです。なので先日2本のタワーの間をやや狭めたんですが,今度は飛びすぎて向こう側に落ちそうになる始末です。うちのネコが時に問題なのかもしれませんが,彼を見ていると,常々「人間というのは,こうすればこうなるというシミュレーションができてよかったなあ」と思うのです。
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは,ホモ・サピエンスの繁栄は言葉を使って想像上の現実(=虚構)を生み出す能力によってもたらされたとものだと喝破しました1)。哲学者ダニエル・デネットは。人間は「ポパー型生物」,すわわちシミュレーション=思考実験によって学習できる心の持ち主だとの論理を構築しました2)。心理学者エドワード・ヒギンズは「自己」を,今現在の「現実自己」,そうありたい自己としての「理想自己」そうあらねばならない自己としての「義務自己」の3種類に分類しました3)。さらに最近の脳科学の先端を行く「予測誤差最小化理論」によれば,脳は,「ああなりたいな」という期待や,「ああなるだろう」という予測と現実との誤差(予測誤差)を最小化するよう,脳内のモデルを逐次改定してくものとして説明されています4)。
これらはいずれも,「人間は”いま・ここ”にないものについて考えられる」という一大特性を持っていることにその来歴があります。人間はネコとは違って,こうしたらこうなる,将来はこうなる,あるいはこうありたいというシミュレーションができるのです。これが人間の思考の最大の特徴のひとつなのです。
<身体としての自己,意識/精神としての自己>
このことを病気と絡めて考えてみます。普段健康なときは,とくにきっかけがないかぎり,”いま・ここ”にある身体としての自己(身体としての自己)と,意識/精神としての自己(意識と精神は同一のものではなく,かなり粗いくくりですがあえて身体と対比する意味でこう称しておきます)とはピッタリ重なっています。というより特に必要がないので,リアル身体は意識/精神としての自己に隠れて見えないと言ってもいいかもしれません(図1A)。
ところが,一旦急性の病気になったとき,例えばわたしの場合は「椎骨動脈解離による小脳梗塞」だったのですが,発症直後は突然高速ジェットコースターに乗ったようなめまいと吐き気の連続に襲われました。この瞬間から,普段ほとんど意識することのなかった身体が突然存在を主張するようになります(リアル身体と名付けます)。哲学者,岸見一郎氏5)が形容したように「わたし」の中に,自分の思い通りにならない「他者」としての身体が顔を見せ,自分と身体の間とに「ギャップ」が生じたのです(図1B)。その後数日間,めまい,吐き気の嵐のため意識とリアル身体の区別がつかない混沌のフェーズ(図1C)と,症状が小康状態のときは他者として身体を捉えられるフェーズ(図1B)との反復の日々が続きました。
そして数日後,ようやく少し食事が摂れて図1Bのフェーズの方に安定した頃,まずやってきたのは「なぜ自分が,ほかでもないこの自分が,こんな病気になってしまったのだろう」という「不条理」感でした。そして同時に思い通りに食事を摂ることも,さらには排泄することさえできないという「身体的不自由」を切実に感じました。もうひとつ,このままでは医師としての仕事ができない,自分の所属する医療施設の活動が十分にできなくなってしまうという「社会的不自由」も深刻なものでした
<不条理と不自由>
これらの不条理感,不自由感は,どこから来るのでしょうか。
このフェーズに至って意識/精神としての自己は,”いま・ここ”にないバーチャルな身体を頭の中にシミュレーションします。ただシミュレートと言っても,今までこうだったという健康なときの「いつもの身体」を思い出すのです。そしてこのリアル身体とシミュレーション身体P(PositiveのP)とのギャップから不条理感,不自由感が析出してくるのです(図2)。
急に病気になったとき,だれしもつい今まで元気だったわたしが,他でもない「このわたし」がなぜこんな病気になってしまったのだろうという想いに駆られます。そして飽くなき犯人探し,原因探しが始まります。あの時こうしたからこうなったんだ,あれをしなければこんなことにはならなかったんだ。そういうふうに病気の原因のつじつま合わせが始まるのです。しかしながらいくら言葉で考えても,もっともらしい原因を持ってきても,今の具合の悪い自分がなぜここにいるのか,つい昨日まで元気で何不自由なく過ごしていたのにどうしてこんな事態になったのか。。。納得することができません。なんといっても,これまで経験したことのないめまいや吐き気が突然襲ってくるのですからね。具合の悪い自分と健康だった自分の埋められないギャップ(ギャップ1),それそのものが不条理を生むわけです。
さらにこれまではなんの問題もなく排泄できていたのに,いまは尿を出すことも自分でできない。不条理感と同様,これまで普通に排泄していたシミュレーション自己P(シミュP)と,いまそれすらもできないリアル自己とのギップが身体的不自由感を生みます。同じくこれまで普通に仕事ができていたシミュレーション自己Pと,いまは何もできないリアル自己との間のギャップが生じ,社会的不自由感となるのです。
そしてこの不自由感を埋めてくれるのが看護であり,家族など周囲の支援です。このときどれだけ看護の力がわたしを勇気づけたか,不自由な身体といつのも身体とを近づけてくれたか計り知ることができません。また医師としての診療停止の事態にあって,どれだけ家族や周囲の友人知人のサポートがありがたかったか。ギャップ1のうちの半分はこうした「支援」によって埋められることになります(このことはまた後述します)。
<最大の問題 不安>
しかしことはそれだけでは済みません。もうひとつ,わたしを襲ったものは「これからどうなってしまうんだろう」「最悪脳の血管が詰まって寝たきり状態になってしまうのではないか」という感覚でした。これまでより悪い状態の自分をシミュレートしてしまい,それとリアル自己との間の,いわばもう一つ次元の異なるギャップです。便宜上より悪く想定した状態の自己をシミュレーション自己N(シミュN)とします。そしてシミュNとリアル自己とのギャップ(というよりその近さ)こそまさに「不安」ということができます。ちなみにシミュNもシミュPも「わたしは,こうなるだろう」という「文」の形を取る以上,言語としてしか表出されません。したがって意識/精神としての自己から生み出されるあるいは延長上にあるものですが,その源泉はいまあるリアル身体であり,リアル身体を通して析出してくるものと思われます。シミュPがついこの間まで慣れ親しんだいつもの身体であるのに対し,今の病んだ状態から推測してこの先もっとこんな事が起こるのでというは暗黒面がシミュNなので,リアル身体からの「滲み出し度」はシミュ自己Nのほうが圧倒的に大きいと思われます。
発症数日後は,ネットを検索しまくり,数多の論文などを読み漁り,この病気の予後(これからどうなるのか)についてかなり医学的知識を仕入れました。私でなくても急性の病気になったら,誰でも多かれ少なかれネットなどで情報を検索するでしょう。こうした行為はシミュ自己Nからできるだけリアル自己を遠ざけ,シミュPへと近づける企てです。
病気の急性期から亜急性期というのは,言ってみればリアル自己がシミュP とシミュNとのはざまで右往左往する状態であるということができます。予測誤差最小化(予測符号化)理論で言えば,わたしたち未来の自己予測(というより期待)としてのシミュPとリアル自己との予測誤差(ギャップ)をできるだけ小さくするために病気の「原因探し」に明け暮れ,不自由さを解消すべく支援を受ける。そしてシミュNの不確実さをネットなどで調べて確実化させる,そしてすこしでもギャップ2を小さくしようと企てる,というわけです。もちろんこの時期,こうしたギャップ最小化に最も大きく貢献するのは医療的介入や自然治癒力ではあると思われます。
実際,この時期の「ギャップ2=不安」を一番埋めてくれたのは,医師からの医学的な現状把握であり今後の見通しでした。担当医師は,これまでの身体所見や脳画像から,現在のここの血管の流れがこのくらい落ちている,この程度だと,これから進行する場合がある,その場合カテーテル治療を緊急に行いなおすという方法がある,という事実をしっかり伝えてくれました。この時期,最も上記のギャップを埋められるものはやはり医学的な言葉や治療行為なのです。
さらにこれまではなんの問題もなく排泄できていたのに,いまは尿を出すことも自分でできない。不条理感と同様,これまで普通に排泄していたシミュレーション自己P(シミュP)と,いまそれすらもできないリアル自己とのギップが身体的不自由感を生みます。同じくこれまで普通に仕事ができていたシミュレーション自己Pと,いまは何もできないリアル自己との間のギャップが生じ,社会的不自由感となるのです。
そしてこの不自由感を埋めてくれるのが看護であり,家族など周囲の支援です。このときどれだけ看護の力がわたしを勇気づけたか,不自由な身体といつのも身体とを近づけてくれたか計り知ることができません。また医師としての診療停止の事態にあって,どれだけ家族や周囲の友人知人のサポートがありがたかったか。ギャップ1のうちの半分はこうした「支援」によって埋められることになります(このことはまた後述します)。
<最大の問題 不安>
しかしことはそれだけでは済みません。もうひとつ,わたしを襲ったものは「これからどうなってしまうんだろう」「最悪脳の血管が詰まって寝たきり状態になってしまうのではないか」という感覚でした。これまでより悪い状態の自分をシミュレートしてしまい,それとリアル自己との間の,いわばもう一つ次元の異なるギャップです。便宜上より悪く想定した状態の自己をシミュレーション自己N(シミュN)とします。そしてシミュNとリアル自己とのギャップ(というよりその近さ)こそまさに「不安」ということができます。ちなみにシミュNもシミュPも「わたしは,こうなるだろう」という「文」の形を取る以上,言語としてしか表出されません。したがって意識/精神としての自己から生み出されるあるいは延長上にあるものですが,その源泉はいまあるリアル身体であり,リアル身体を通して析出してくるものと思われます。シミュPがついこの間まで慣れ親しんだいつもの身体であるのに対し,今の病んだ状態から推測してこの先もっとこんな事が起こるのでというは暗黒面がシミュNなので,リアル身体からの「滲み出し度」はシミュ自己Nのほうが圧倒的に大きいと思われます。
発症数日後は,ネットを検索しまくり,数多の論文などを読み漁り,この病気の予後(これからどうなるのか)についてかなり医学的知識を仕入れました。私でなくても急性の病気になったら,誰でも多かれ少なかれネットなどで情報を検索するでしょう。こうした行為はシミュ自己Nからできるだけリアル自己を遠ざけ,シミュPへと近づける企てです。
病気の急性期から亜急性期というのは,言ってみればリアル自己がシミュP とシミュNとのはざまで右往左往する状態であるということができます。予測誤差最小化(予測符号化)理論で言えば,わたしたち未来の自己予測(というより期待)としてのシミュPとリアル自己との予測誤差(ギャップ)をできるだけ小さくするために病気の「原因探し」に明け暮れ,不自由さを解消すべく支援を受ける。そしてシミュNの不確実さをネットなどで調べて確実化させる,そしてすこしでもギャップ2を小さくしようと企てる,というわけです。もちろんこの時期,こうしたギャップ最小化に最も大きく貢献するのは医療的介入や自然治癒力ではあると思われます。
実際,この時期の「ギャップ2=不安」を一番埋めてくれたのは,医師からの医学的な現状把握であり今後の見通しでした。担当医師は,これまでの身体所見や脳画像から,現在のここの血管の流れがこのくらい落ちている,この程度だと,これから進行する場合がある,その場合カテーテル治療を緊急に行いなおすという方法がある,という事実をしっかり伝えてくれました。この時期,最も上記のギャップを埋められるものはやはり医学的な言葉や治療行為なのです。
文献
1)ユベル・ノア・ハラリ.サピエンス全史(上), 2016年,河出書房新社
2)ダニエル・C・デネット.心の進化を解明する, 2018年,青土社
3)Higgins,E.T.1987 Self-discrepancy:A theory Relatingselfandafect.PsychologicalReview, 94,319-340.
4)乾敏郎ら.脳の大統一理論 自由エネルギー原理とはなにか.2020年,岩波書店
5)岸見一郎.不安の哲学.2021年,祥伝社
1)ユベル・ノア・ハラリ.サピエンス全史(上), 2016年,河出書房新社
2)ダニエル・C・デネット.心の進化を解明する, 2018年,青土社
3)Higgins,E.T.1987 Self-discrepancy:A theory Relatingselfandafect.PsychologicalReview, 94,319-340.
4)乾敏郎ら.脳の大統一理論 自由エネルギー原理とはなにか.2020年,岩波書店
5)岸見一郎.不安の哲学.2021年,祥伝社
by dobashinaika
| 2021-08-15 21:05
| 医者が患者になった時
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土橋内科医院の院長ブログです。心房細動やプライマリ・ケアに関連する医学論文の紹介もしくは知識整理を主な目的とします。時々日頃思うこともつぶやきます。
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筆者は、2013年4月以降、ブログ内容に関連して開示すべき利益相反関係にある製薬企業はありません
●医療法人土橋内科医院
●日経メディカルオンライン連載「プライマリケア医のための心房細動入門リターンズ」
●ケアネット連載「Dr,小田倉の心房細動な日々〜ダイジェスト版〜」
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