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共病記(17):医療における「既知の知」「無知の知」「無知の無知」そして「既知の無知」

「2002年2月,当時のアメリカの国防長官だったドナルド・ラムズフェルトは,「知らないこと」と「知っていること」について,ちょっとばかりアマチュア哲学者を演じてみた。「知っている知っていること」,つまり,我々が知っているということを我々自身は知っていることがある。
「知らないということを知っていること」,つまりわれわれが知らないということをわれわれ自身が知っていることがある。
だがさらにもうひとつ,「知らないということを知らないこと」,つまりわれわれは知らないということをわれわれ自身が知らないことがある。」

私の大好きなスロヴェニアの哲学者,スラヴォイ・ジジェクは,最新作「事件!」でラムズフェルトの言葉を引き合いに出してわれわれの「知」について語っています。じつはこの逸話は以前のジジェクの著書に何回も登場する彼お気に入りの逸話なんですね。

当時,アメリカはイラク攻撃の最中で,ラムズフェルト長官の言葉はイラク攻撃を正当化するために(サダム・フセインの脅威がどんなものかを知らないでいたという事自体を知らなかったのだという意図)用いられたのですが,この言説はそのまま私たちが毎日行っている医療行為にもよく当てはまります。

「知っている知っていること」,これは「既知の知」ですね。私達がある程度自信を持って行っている医療行為の多くはこれでしょう。「降圧薬を使えば血圧が下がる」「細菌性肺炎には抗菌薬が効く」。。。我々の医療行為の多くが既知の知に基づいて行われています。

一方「知らないとうことを知っていること」,いわゆる「無知の知」ですね。無知の知は医療の経験を重ねれば重ねるほどに,気付き蓄積されます。「軽症糖尿病のひとのHbA1cをいくつまで下げればよいか」「85歳以上のひとの抗凝固薬はリスクをベネフィットが上回るのか」,こうした問ははっきりした解答がいまだにありません。こうした問いに答えてくれると期待される医学的装置のひとつにEBMがあります。ですが,EBMの世界に入りこむほどに,わからないことばかりであることがわかってしまうのはEBMerならずとも,誰もが経験するところです。実は総量としては既知の知よりも圧倒的にこれが多いのかもしれません。EBMに限らず,無知の知は科学の前向きベクトルの源とも言えます。

では「知らないとうことを知らないこと」とはなんでしょうか。「無知の無知」ともいえますが,たとえば手術時の抗凝固薬中止=ヘパリンブリッジについては確固たるエビデンスがなく,慣習的に行われているのが現状ですが,そうしたことに疑問を持たず一律に行われている場合などがあります。また個人レベルで言えば,たとえば「IgG4関連硬化性胆管炎」という疾患概念を知らないために精密検査の時期が遅れた等の場合が想定されます。無知の無知は総じて誤診とか,過剰治療に繋がりやすい側面があると思われます。

さて,ジジェクですが,じつはこの3つの「知,無知」の他にきわめて重要な第4項があリ,これを見逃したということはラムズフェルドが本物の哲学者ではないということだと,バッサリ言っています。

その第4項とは「知られていない知られていること」,つまり自分がそれを知っているということを自分は知らないこと,なのです。言ってみれば「既知の無知」

これ,とっさには思いつかないです。知っているということを知らないというのはなんだろうか。たとえば,私たちはかぜに抗菌薬が効かないということはいろいろなところで言われているので,「知って」います。しかしながら,典型的なかぜ症状でもマクロライド系抗菌薬などを処方する医師が多いと思われます。あるいは習慣性があると知っていてもエチゾラムをつい処方してしまうとか。。これ,厳密には「知っているけど実行できない=わかっちゃいるけどやめられない」と言ったほうが良いかもしれません。

ジジェクはこれを,フロイトの無意識のようなものであり,ラカンが「それ自身知らない知」と呼んだ幻想である,と言っています。。自分の行為や感情を決定するような,自分に付着していて気づかずにいるもの。。医療における無意識って何でしょうか。ポジティブな面を考えればたとえば,心不全の時のIII音の聴取の仕方とか,あるいは外科手技全般のベテランでしかできないような職人芸的スキルとか。。。要するに暗黙知ですね。なかなか言語化できない知恵のようなもの。

もっとネガティブな方に範囲を広げると,たとえば私たちがほとんど無意識に行っている医療,インフルエンザなら一律にタミフルを出すとか,ACE阻害薬より先にARBを出してしまうとか。。つまり,客観的に正しいかどうかは不明だが自分が正しいと思った医療を信じこんで行ってしまう医療行為がこの「既知の無知」に当たるかもしれません。厳密には「誤って知っている,あるいは不正確なまま知っているということを知らない」ということになるかと思います。

それからたとえば,患者さんが自分の意志で薬をやめてしまったり,あるいは勧めた薬を飲みたくないと言われた時に,無意識に自分の方針を強く押し付けてしまう,あるいはその患者さんに冷たくあたってしまうなど,パターナリズムの無意識的な降臨でも言いますか。実は,医師は無意識に患者さんを傷つけていたり,気になるようなことを不容易に言ってしまったりすることは多々あれど,自分では気がつかないということだと思われます。知っている(というか身についている)ことを知らないでしてしまう無意識的パターナリズムとでも言いますか。。

そして最後は「健康」そのものですね。健康になりたいと誰もが思うし,患者さんの健康をずっと維持したいとどの医師も考えます。自分が健康でいるとき,健康はもう当たり前の空気のような存在になって,その大切は知っていても普段は知らない,あるいは意識しないようにふるまっています。しかし一旦体に変調が出れば,人間だれでも「健康」であることの大切さを知るようになる。病気になってみないと「健康の大切さ」は知り得ない。そういう意味では「健康願望」は知ってるけど知らない,「既知の無知」かもしれません。もちろん,健康であっても常に健康を第一目的に意識しているからもおられますが。

ただ,私自身は,(医者がこういうのも語弊があるかもですが)「健康」(あるいは「健康を目指すこと」)というのは,それこそラカンのいう一種の「幻想」のようにも思います。以前の共病記でも書いたように,私自身は病んでいく,年老いていくごとに健康への距離感は変わっていくのだと思います。その時その時の自分の身体とどう自分が折り合いをつけるかしかないような,,

脱線しましたが,言葉遊びみたいなものとはいえ,ジジェクの第4項,「知っているということを知らない」ということがあるのだということをまず知り,そしてそうした無意識を意識するようにしていきたいものです。
ジジェクの「事件!哲学とは何か」はこちら
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$$$ もと天賞があった公園。もみじの石畳ができていました。
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by dobashinaika | 2015-11-23 01:03 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

人生は断片的なものの集まりー「断片的なものの社会学(岸政彦)」を読む

「人生は断片的な物が集まって出来ている」
「私の手のひらに乗っていたあの小石は,それぞれかけがえのない,世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが,世界中の路上に無数に転がっている」
「私達の自己の世界は,物語を語るだけでなく,物語によって作られる」
「私達の人生は,何度も書いているように。何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような,そういう人生である,私達のほとんどは,裏切られた人生を生きている。私達の自己というものは。その大半が「こんなはずじゃなかった」自己である」
。。。

こうクリニカルパールを羅列するとありきたりに見えますが,様々なエピソードをはさみながら,「分析できないもの」「物語にできないもの」がそのままの断片としてさり気なく語られています。

よく「ありのままで」「自分らしく」「本当の自分」などと言いますが,思えば人間というのは,ぜったい「ありのまま」ではいられない,むしろ「いま,ここ」を常に越えようとする存在,あるいは越えようとするプログラムがインストールされた存在といえるのではないか,そう思うのです。いわゆる「超越的存在」ですね。

うちにも猫がいて,かれらはとにかく食に対しての欲望は際限がなく,主人がいない時にも台所を漁るくらいの「意図」は持っているわけですが,でも食べ物が得られない時に,では,もっと食べ物がゲットできるようにと外に出る算段を計画したり,いつもより多く食べ物をもらおうと主人にもっと媚びをふるようなそれこそ猫なで声をかけたり,そんな事はしないわけです(する猫もいる?)。

人間だけが,食べ物がなければ計画的に稲を作付けしてコメを得ることができる,人間だけが今すぐ実現できない「目的」を掲げてそれに向かって自分を高めていくことができる,そう戸田山先生も「哲学入門」で述べられています。

で,目的というのはまだ見ぬ世界なので,われわれは日々目的と現実のギャップに悩むわけです。そして結局ギャップが埋まらないまま終わってしまうんじゃないか,そんな「不安」を常に抱えて生きるわけです。不安がなく暮らしている人もいるかと思えますが,実はそうでもない。ある目的が達成されたと思えたら,また別の目的が芽生えます。人間とは良く言えばそうした可能性を常に秘めた存在であり,裏返せば永遠に目的を達成できない「不安」を抱え持った存在であるとも言えます。人間の意識というのは「不安」そのものであると言っても極論ではないと思います。

だいぶ本の内容からそれてしまいましたが,,本書はそんな大上段から人間を論じているわけではなく,どこかの学生が書いた「昼飯なう」のようなつぶやきに惹かれること,そうした物語にも分析の対象にもならないような断片に惹かれる,そうした心の機微を淡々とさり気なく書いているのです。

「自分の中には何が入っているのだろう,と思ってのぞきこんでみても,自分の中には何も,大したものは入っていない。ただそこには,今までの人生でかき集めてきた断片的なガラクタが,それぞれつながりも必然性も,あるいは意味さえもなく,静かに転がっているだけだ」
人生に「不安」を感じたら,こんな著者の言葉が「ほぐし」になるかもしれません。いやそうした癒やしほぐしなどを求めるというようなやわい感触とは別次元の,何も声高に主張していないのに,ひたひたと身体に染み入ってくるような一種の佇まいを感じさせる,そんな一冊です。
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$$$ 連日寒い日が続きます。でも健気にアスファルトに咲く花もある。
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by dobashinaika | 2015-08-30 23:12 | 医者が患者になった時 | Comments(2)

共病記〜医者が患者になった時(16)病気とは存在の意味の問いかけ

仙台七夕も最終日ですね。
実はちょうど1年前の8月8日、「医者が患者になった時」で綴りましたように、椎骨動脈解離+小脳梗塞を急性発症し、入院しました。
あれから1年たちましたが、今は皆様のおかげで、なんとか元気に生活しております。

ブログで散々書きましたが、病気になって数日は混沌の中におりました。その後だんだんと、なんでこの自分がこんな病気になったんだろうという「不条理」、明日はどうなるか実は誰にもわからないという「不確実」、誰も自分の今の苦しみを同じように実感することはできないという「不可能」、一挙手一投足ごとに感じる「不自由」に加え、それら全てを抱え込むことの「不安」という5つの「不」を痛感させられました。

今でこそ、目の前の小さな目的−手段連鎖に明け暮れる毎日ですが、病気というのは、そうした安穏とした日常に突如風穴を開けて、私達におのれの存在の意味を不意に問いかけてくるものなのです。

病気になってみて始めて、人間というのは、自分の中に苦しんでいる自分とそれを必死で言葉で説明しようとする自分がいて常にそれらがからみ合っている(=文字通り葛藤)ことに気がつくし、また自分は一人で生きているのではなく、家族、友人、仕事仲間、医療者等様々な関係性の中を生きているということも否応なく痛感させられるのです。

病気というのは、このように自己の中の関係性と、自己と他者の関係性の2つの関係性の存在とその意味を、私達に突如として、しかも極めてダイレクトに問いかけてくる脅威の存在です。

でも、1年経って、安穏で安定し小さな秩序にやきもきする日常を送っていると、そうした存在のクライシス(=危機)のような嵐を忘れてしまっていることに気が付きます。ちょうど震災の時の痛み苦しみが、徐々に薄れていくのと同じように。。

もちろんそうした危機はないに越したことはないわけですが、あのときに目の前につきつけられた、自分という存在の唯一無二性みたいなものと、そして人間が一人でいることの不可能性みたいなものを、1年たった今、もう一度反芻してみたいと思っているところです。

$$$ ことしの仙台七夕で一番斬新でカッコよかった飾り。誰のデザインだろう。
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by dobashinaika | 2015-08-08 22:47 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記〜医者が患者になった時(15)「死」のイメージ

今週水曜日ケアカフェ仙台に参加しました。テーマは「死んだらどうなる」

病気になるまでは死んだら「無になる」と思っていました。大方の医師がそうであるように。
しかし脳梗塞の最初の数日、めまい、吐き気、苦しみで身体全体がグチャグチャの混沌状態になっていた時、やや死に近づいていたように思います。そのときは身体全体が「苦しい」「つらい」のかたまりで「苦」「痛み」を軸とする純粋に単一の自己だったように思います。

そこには言葉とかロジックなど入り込む余地がない、自分の全存在が「痛み」「苦しみ」に支配され、一体化してしまっている感じ。確かに頭が痛くて苦しいのですが、苦しいのは頭だけでない。からだ全部と言ってもいい。どことはいえないー。以前使った言葉を用いれば、自己全体が「身体のじぶん」のみと化した状態と言っても良いかもしれません。

私の場合、幸いそこから改善に向かったわけですが、この時、だんだんに自分の身体の状態を言葉で言い表し分析する自分がほぐれて現れ、身体のじぶんと言葉の自分が対極化していきました。

以前にも述べたように「治る」というのは、この苦の混沌(=身体のじぶん)から言葉の自分が別れて自立していく過程とか関係性の変化のことだと思うのですが、一方そのまま自己が一塊のままで(ある種の恍惚感を持って)突き進んでいく状態が「死」なのではないかと思ったりします。「統一場としての自分」と言った感じ。

そしてこの自分は世界とも一体化するのではないか、その時が「死」なのではないか。バラモン教でいう梵我一如に近い感触。。
誰も死を見たことがない、経験してきたことがないので、何でも戯言を言えるのですが、最近は、それまで思いもしなかった「スピリチュアル」な「死」のイメージを抱くようになりました。

まーでもやっぱり、一方でそういったスピリチュアルも、脳内物質の相互作用で説明可能とまだどこかで思ったりスルのも、医者の性かもしれません。

死については、そして病気と死との違いについて、そこへの医療の関わり方について。次回はもう少し掘り下げていこうと思います。
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by dobashinaika | 2015-07-17 22:02 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記(14):第三のじぶん

2月からみちのく総合診療医学センターのレジデントデイに月一回参加させて頂いています。http://www.miyagi-min.com/general/index.php

研修医の先生が1ヶ月間に経験されたケースの振り返りですが、外来や在宅のcommonな、あるいはcaoticなケースを若手、ベテラン共にディスカッションしながら振り返るというセッションです。

外来の患者さんをこの様にフィードバックする場があるということさえ感動を覚えるわけですが、他の医師、しかも若手の先生の経験を追随しワイワイとディスカッションすることがこの上なく楽しい時間です。

入院患者さんだけではなく、もちろん我々開業医が見ている外来患者さん、在宅患者さんの診療であってもさまざまな問題が日々生じますが、フィードバックする場が無いため、どんどん流れていってしまいます。外来診療であってもフィードバックは当然必要なわけで、こういう場をわれわれ中高年開業医でも創生したいなと考えています。

9日は3回めの参加で、Case-Based discussion(CBD)の指導医を実習させていただきました。これも非常に面白いのですが、それについては後日詳述したいと思います。

で、人間の認知システムというのは「直感システム=システム1」と「熟慮システム=システム2」の二重プロセスからなるというモデルはよく知られていて、以前のブログでも書きました。
http://dobashin.exblog.jp/21113999/

このことは病気の診断をする場合の臨床推論モデルにもよく引用されますが、この回のブログでも取り上げた本などを読みますと、最近はシステム2をさらに「アルゴリズム的精神」と「内省的精神」に分ける「三部分構造モデル」が提唱されているようです。

要するに人間の心は「直感(情動に近い)」と「分析(いわゆる頭の良さに相当)」のせめぎ合いだけど、「今は直感に頼ったほうが良いか、それとももっとゆっくりエビデンスなんか参考にして分析的に考えたほうが良いか」、その調整をする「メタ認知」的なものもあるということですね。

私の共病記の言葉を使って言えば「身体のじぶん」と「言葉のじぶん」のバランスを上手く取ろうとする「考えるじぶん」がいるということです。

人間の心がこの3つの要素のからみ合いで成り立っているというのは、人生のあらゆる場面で言えることかもしれません。

たとえばある人と意見が違うことで口論になる。その場合まずは感情(システム1=自動的精神=身体のじぶん)が表に出て、カッとなったり、なんとか言い負かそうと躍起になったりします。一方でここは冷静になれ、論理的に考えて相手を説得しようとする「アルゴリズム的精神=言葉のじぶん」も芽生えてくる。そこで大切なのは、しゃしゃり出てくる感情をいかに制御して、いや、やはりここは冷静に論理的に考えましょうとバランスを取ろうとする第3のじぶんだということです。

当院では数年前から医学部の5年製実習も受け入れていますが、そうした医師の教育に多少なりとも関わっていて思うのは、医師における(あるいは医師にかぎらず人間全ての)生涯学習とか、レベルアップとかいうのはアルゴリズム的なスキルアップもさることながら、この「内省的精神」のレベルアップが真の目的なのだと最近痛感します。年をとるほどに。

感情情動を優先したほうが良いか、熟慮したほうが良いか、をわきまえるということですね。(医療者の、あるいは患者さんの)教育の真の目的はそこにあるかもしれないと思われます。

でもこれ、意識的にできるわけでもなさそうで、また完璧にできたら神なわけですが。

$$$ これまた老舗熊谷屋さんのむすび丸。スイーツは食べるより見て楽しむべし(笑)。
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by dobashinaika | 2015-05-11 00:10 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記(13)〜医者が患者になった時〜:医療とは”患者のシステム1,2両者への働きかけ”である。

前回のつづきです。

キェルケゴールの人間に対する優れた洞察に唸ったわけですが、最近の脳科学を始めとする心の研究は、その洞察を裏付けるような展開になっているようです。

勁草書房から出ている「シリーズ心の新哲学」という心についての最先端の研究書を読んでいましたら、人間が物事を認知する場合、2つの処理システム(システム1,システム2)が存在し(二重プロセス理論、最近では三重とする説もあり)、それが最近では脳科学でも証明されていてそれぞれのシステムに対応する脳の解剖学的主座が解明されつつあるとのことです。認知心理学の定説だと思われますが、病気に対する認知にも当てはまるように思われます。

システム1というのは、ヒューリスティック(直感)に基づいて自動的に行われるもので、システム2は意識的に実行され、逐次的な分析処理を旨とするものとされています。今回私が感じた「身体のじぶん」と「言葉のじぶん」にある程度符合するように思います(やや違いますが)。

病気になると「痛い苦しいと感じるじぶん=システム1」が「それを説明しようとするじぶん=システム2」より肥大化しがちになります。

そこで、システム1,2という分け方にそって言うならば、医療者の役割とは以下の3つのプロセスからなるように思われます。、
1)患者がシステム1で感じる痛み苦しみに対して理解を示しそれを鎮める=苦痛の除去
2)患者のシステム2が自分の痛み苦しみ(システム1)をどのように捉えて、どう説明をつけているのかを理解する=解釈モデルの理解
3)医者が理解した患者のシステム2に基づいて、患者のシステム1の来歴行末について説明し、今後の行動選択肢を示し、両者で意思決定をする=意思決定

すなわち医療とはシステム1,2という言葉で単純に言ってしまえば、患者のシステム1を理解し鎮めると同時に患者のシステム2を調整する。そしてより良い意思決定へと導くということになろうかと思います。

生活習慣病の管理も同じですね。甘いものを食べたいというシステム1に理解を示し、しかしそれと同時に患者さんの「それでも将来怖い病気にならないようにしよう」と考えるシステム2がうまく稼働するようにシステム1を制御する言葉と方法を提示して行動変容を促す。ということです。この時患者さんのシステム1が今どのような状況にあるのか、および患者さんシステム2が自信のシステム1をどのように捉えているのか、ということを理解することが重要ですね。この作業がいわゆるナラティブの理解だと考えられます。そして、システム2が目先の欲望というシステム1をよく制御できるようにゴールを提示し、エビデンスを提示する、ここでEBMが導入されることになります。

病気というのは、すべからくシステム1とシステム2のせめぎあいのように思われます。そのどちらにもアプローチすることが医療者に求められているとも考えられます。

「新・心の哲学シリーズ」
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$$$ この話もそろそろ繰り返しになってきましたのでこの辺で一段落、、、というところで桜です。青葉城址の隅櫓前も満開でした。
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by dobashinaika | 2015-04-13 01:10 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

心に残った一冊:キェルケゴール「死に至る病」

南山堂の医学雑誌「治療」4月号で「高齢者x心房細動」という特集の編集幹事をさせていただいたのですが、その最終ページの「おしまいのコーナー」で「心に残った一冊」を書く機会を与えていただきました。
ちょうど病気をした直後にご依頼いただいたので、その時一番自分の心象に近かった本について、自分の病気と絡めて書きました。
すでに共病記で書いたことですが、もしよろしければお読みください。

「死に至る病」 著:キェルケゴール,訳:斎藤信治

 昨年8 月にちょっと大きな病気をしました.リハビリ中に自分のなかの2 人の「じぶん」に気づきました.「痛い」と感じる「身体のじぶん」と,それを医学的な言葉で説明し,予測を立てようとする「言葉のじぶん」です.「身体のじぶん」をどうにか説明づけ,見通しを立てて平衡状態を保とうとする.病気とはこの2 人の関係性の変化であり,この2 人のギャップを埋めていく作業である,なんて退院後考えながらぼんやり本棚を眺めていたら,あれ? なんかこの感覚どっかで読んだ文章にあるぞと思い出しました.その本の冒頭部分「人間は精神である.精神とは何であるか? 精神とは自己である.自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である」高校の頃読んで全くわからずに放っておいた哲学史上有名なこの言葉の意味を,病気になってはじめて知ることになったのです.病気とは自分のなかの自分同士の関係性の変化なんですね,医療者はその関係性をうまく調節する役回りなのではないか.キェルケゴールがそんな風に問いかけているような気がしました.
小田倉弘典(土橋内科医院)

キェルケゴール「死に至る病」
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by dobashinaika | 2015-04-13 01:07 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記(12)〜医者が患者になった時〜:医療とは”リハビリテーション”である。

前回(2月12日)から、だいぶたってしまい、もう記憶も薄れかけてはいるのですが、昨年夏の病気(椎骨動脈解離+小脳梗塞)でどうしても、書いておきたいことがあったので、ようやくではありますが、重い筆(キーボード)を執ることにしました。

入院後ちょうど1週間で、点滴と尿道カテーテルが外れ、晴れて自由の?身になったのですが、その日の朝(8月15日)は、まだ到底立つことは無理だろうなと思っていました。かなりグラグラがなくなったとはいえ、まだまっすぐより左に首を向けると高速ランダムめまいが襲ってきました。ベッドを60度位までギャッジアップしてなんとか座っていられるようにはなりましたが、まだとても不安です。こんなので立てるわけないよナー、あと1週間はねたままかなーと思っていました。

ところが、午後になり、リハビリの先生(理学療法士)の病室訪問とともに、そうした懸念は見事に打ち砕かれました。
主治医に今日からリハだとは知らされてはいましたが、まず寝ながらの手足の運動などだろうと思っていたのです。

ところが、リハの先生は2、3回、臥位で足や手を他動的に動かしたあと、すぐに「ベッドの脇に座ってみましょう」とおっしゃたのです。
一瞬耳を疑ったわけですが、先生の目は確信に満ちた感じだったので、釣られるように、ゆっくりではありますが、ベッドの柵をささえに、まずベッドの上に座り、その後向きを90度変え、ベッドの縁におしりをおき、足を床におろしました。
これだけの一連の動作ですが、時に頭がグラつくものの、なんとかベッドの縁には座れるようになっていました。

これだけでも驚きでしたが、先生は、さらに「ではこのままちょっと立ってみましょうか」とおっしゃったのです。
やっぱりかなり冒険的な言葉ではありましたが、ベッドに自分の力で座れた今となっては、「あれ、できそうかも」という感じでした。
そしてやはりベッド柵を手をしっかり握り、ゆっくり足を伸ばしました。
すると。。想像以上に体が軽く感じられ、ふわっと体に羽が生えたような、いやなにか見えない力のようなもので背中が持ち上げられるような感じで、立てのです。もちろん頭はフラフラするし左に向くのは恐怖でしたが、それでもなんとか二本足でアームストロング船長のように?立つことができたのです。

この時の先生の確信に満ちた笑顔を忘れることはできません。そして単に自分が自分の力で、自分の足で立てたのだという、ただそれだけのことなのに、病気をする前だったら当たり前の単なる立つという動作なのに、自力で立てたことそのものに深く静かに感動しました。
ただ一人で立つという、健常者だったら当たり前のことそのことに無上の喜びを感じることができる。これがリハビリの力だと思います。

その後の2週間は、土日を除いて毎日1時間、病院一階の理学療法室に通いました。最初の1周間は看護師さんに車イスを押してもらい、最後の1週間は自力で車いすで行くようになりました。リハは、平行棒を使っての歩行、ベッドの上でのバランスボールなどから、後半は先生を伴っての歩行などでしたが、極めて順調に経過し、入院約3週間で、8月の最後に退院出来ました。

入院中、見舞ってくれた同級生の精神科医からすすめられてオリバー・サックスの「左足をとりもどすまで」という本を読みました。オリバー・サックスは有名な脳外科医ですが、山中で転落事故にあい、手術によって傷は癒えましたが、左足の麻痺及び知覚が全くなくなり、自分のものであるとは感じられなくなってしまいました。「患者」としての内面世界を垣間見るのに素晴らしい本ですが、その中で左足の感覚が戻ってくるときの感動的なシーンが綴られています。興味深いことに、左足が充電され生き返った感覚が訪れた時に聞こえてきたのが、それまであまり熱狂的なファンでもなかったメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲だったのです。

ほとんど同じような経験が、私にもありました。退院したとはいえ、外へ出かけるのはかなり困難と感じていた時期、仙台で毎年初秋に行われるジャズ・フェスにはちょっと行きたいと思っていて、1日だけ天候の良い時に出かけました。まだ立って音楽を長く聴くことはままならないので、座れる会場を選んでそれでも1時間位で帰ろうとしたその時です。初秋の心地よい風とともに、なんとも自然な感じの、空気に溶けこむような歌声が聞こえてきました。

西公園にある、人がたくさん集まる特別な会場でしたが、後ろのほうで当然立って聞かざるを得ない状況で、そのどこまでの伸びていくような歌声に釘付けとな、1時間近くめまいや足の震えを感じることなく、その歌手の歌を聞き入ってしまったのです。そのときは歌手の名前もよくわかりませんでしたが、あとでパンフを見たらBirdという女性ボーカルの方でした。普段、あまり聴くことのないジャンルだったにもかかわらず、何故か心の中にいつのまにか自然に入ってきて、しかも自分が1時間近くも立っていられたことに非常に驚きました。

思うに、人間が病気から回復するとき、もちろん徐々に快方へと向かうわけですが、もしかるすと一歩一歩良くなるというのでなくて、何かをきっかけにして急にジャンプアップするものなのだ、「回復」とはそういうものなのだと思ったのです。あるいは回復でなくても良いかもしれません。自転車の運転でも、浅田真央選手のトリプルアクセルでもかまいません。それまで到底できないと思うことができるという時、その福音はあるとき突然、それまでとは不連続な形式でもって、ジャンプアップの形で舞い降りてくるように思うのです。

そしてそのきっかけに何か音楽とか、外部の啓示みたいなものが後押しするのではないか、今回の経験でそんな風に思えました。

では、なぜ人間の体が回復するとき「突然に」良くなったとおもうのでしょうか? それは人間が病気から回復するとき、その回復の目安(指標)を「立てる」「支えなしで歩ける」「思うように仕事ができる」などのように「〜ができる」という「機能の回復」というものに設定しているからだと思うのです。

機能の回復という視点で見れば、「〜ができる」か「できない」かは二者択一になります。目に見える形での評価法が採用されているわけです。白黒がはっきりしていますので、そのことが「できた」ときには、突然出来たように思うわけです。実際は「できる」までには体の各機能が連続変数で上昇しているわけで、そのことはリハ中にも実感できるわけではありますが、でも「立てた」ということそのことは、それまでの立てなかった時とは何百倍かの飛躍感を持って心に残るのです。

私たちは「病気が治った」というとき、どういう身体の「機能」を念頭に置き、目的として設定しているのかによって病気からの「回復感」は大きく変わります。病気の前に100%戻ることなのか、ある程度のところで折り合いをつけるのか。軽度な機能低下なら良いのですが、障害が重いほど、病気前への完全な回復は難しくなります。特に「老い」がその原因の根底にある病気の場合100%の機能回復はできないことのほうが多いでしょう。このようなとき、そのゴールをどこに設定するのか、このへんでよしとするのか。100%の正常化を望むのではなく、その都度その都度の状態をその時点での「最適なもの」として受け入れられるのか、否か。この葛藤が「病気を生きる」ということかもしれません。

結局のところ病気と向き合うということは、その都度の状態をいかに最適なものとして「感じ」「受け止められるか」ということにかかってきます。病気が「治る」ということ、あるいは病気からの回復とは「正常化」ではなく「最適化」です。

前回の「2人の自分」に即して言えば、痛み苦しみをかんじている「身体のじぶん」の変化を「言葉のじぶん」がどのあたりでよしとして受け入れられるか。めまいがひどいけれども、このくらいのことができればそれでいいと思う「このくらい」のレベルを、「言葉のじぶん」がどの辺りに設定し了解するか。

医療の役割とは、そのゴールをなるべく病気の前の状態に近づくように高めることがひとつですが、もうひとつ、低めのゴールであっても、それがその時点での最適なものとして受け入れらるような環境を患者さんの周囲に作ることも、また大きな役割のように思います。

リハビリテーションの語源を見てみましょう。ラテン語でre(再び) - habiris(適した)。つまり再び「適した」状態になることを意味しています。そうです。医療とは広い意味でリハビリテーションそのものなのです。


$$$ 昨日の桜、今朝はここまで開花しました。そして夕方にはもっと花開いていました。桜の開花というのも、不意に突然開いてそのあと急速に、、という感じのように思えますね。
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by dobashinaika | 2015-04-07 00:28 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記(11)〜医者が患者になった時〜:医療に(究極の)役割があるとすれば

3回めのMRIで、どうやら血管の解離の進行は止まったようだと主治医の先生から告げられました。それを聞いて、もちろんとても安心したし、5つの「不」のうちの最後の「不」である、「不安」のかなりの部分が暗雲が晴れるように収束して行くのを感じました。それと同時にそれまでの例のめまいや後頭部のもっさり感もちょっとだけでも軽くなったように感じたのです。

これは、もちろん5つの「不」のうちの「不確実」が、「もう山場は乗り切りました」と先生に言われたことで大幅に軽減されたのが直接の原因だったに違いはありません。「言葉のじぶん」が医師の言葉を通じて医学的に未来の不幸な事態の可能性が小さくなったことを理解したからです。「知」のちからが「言葉のじぶん」に作用したのです。

でも、やっぱリそれでも未来というのは、特にまだこの段階では自分の脳の状態がどう転ぶかは疑い始めればきりがないというのも事実でしょう。疑い始めれば解消することはできない、これが不確実性であり、未来というものの本質です。なのになぜ、主治医の言葉で痛い苦しいの症状まで緩和されるのでしょうか?それは、ありきたりな表現かもしれませんが、私が先生を「信じていた」からにほかなりません。それはそれまでの先生との診察、対話、先生の物腰や知識と経験、そうした総体としての存在自体への信頼であり、先生と私との関係性への信頼ということができます。

「言葉のじぶん」が知識で理解するのに対し、医師への信頼は「身体のじぶん」が、より混沌とし瀑とした「身体」が、言葉でと言うより身体それ自身で納得し信頼するという感じです。同じことは医療従事者あるいは医療という行為全般にも当てはめることができます。

MRIの結果を聞いてからは、それまでは後頭部からお腹までにかけて言葉に出来ないようなもっさり感だったのが、この時あたりから、「いつもはいろいろ場所は動くけれどもいちおう頭に限定した痛みがある」「それとは別に体を動かすとふわふわ浮くような感覚がある」というように、自分の症状を時間や体の部位によって区別できるようになってきたのです。

痛い、苦しい、それを言葉にすることが困難だった「身体のじぶん」を、「言葉のじぶん」が分析し、整理し、区分けできるようになってきた。まさにこの「区分け」するということが病気の回復ということなのかもしれないということを実感しました。

そしてこの「区分け」のときにこそ、医療者を始めとする周りの人々、いわゆる他者の果たす役割の大きいことに気付かされました。たとえば、頭痛のために氷枕を使っていたのですが、それでも痛くて顔をしかめていた時、朝、点滴交換にみえた看護師さんがアイスノンを鉢巻きのようにビニールに巻いて持ってきてくれました。また、看護師さんにしばらく清拭をしていただいたのですが、その時の声がけや、体の動かし方など、経験豊富とは思いますが、それにしても本当に私の痛み苦しみをこれ以上悪くしないような気遣いで、拭いたり、体を横に向けたりしてくれるのです。

5つの「不」うち、自分の痛み苦しみは絶対分かり合うことはできない、つまり「不可能」ということを厳然と自覚しましたし、そしてそれは今でも感じます。自分の苦しみ、病の体験は誰とも共有できない唯一無二のものであるのだということを。

でも、この「不可能」は「不可能」のままで終わるのかというとそうではないのですね。痛い苦しいとかんじている「身体のじぶん」のその痛み苦しみそのものは誰もわかることはできません。痛みは自分にしかわからない、他人が同情することはできない。それはそうなのです。でも、しかし、「身体のじぶん」が痛いのだということを「言葉のじぶん」がどう痛いのか、どう感じているのか、どう不安なのかを意味づけしている。その仕方そのものを他者がわかることで病者は不安から幾許かも解消されると思うのです。痛みや苦しみは、それ自体理解不可能なものであると同時に、それでも他者と共感するルートを持っているいわば両義的なものとしてあるように思われます。

もうすこしくだいて言うと、「苦しみ」それ自体をわかることは他者には不可能だけれど、「苦しい」とその人がかんじているという、その事自体ならわかることができる。そして「苦しい」と感じていることを、医療者を始めとする他者が「わかっているということ」を病者が「わかる」ことで、病者は不安から少しでも解放される。言ってみれば、「身体のじぶん」を「言葉の自分」が区分けしている(使い古された言葉で言えば物語化ですね)、その区分けに承認を与えることが安心につながる一縷の糸のようなものだということができます。

そしてこうした承認を病者は、言葉よりもそれこそ点滴を取り替えるときとか、清拭の時とかといった診療時間の隙間みたいなふとしたときに感じるように思います。「さああなたの苦しみを傾聴しますよ」みたいにされるとかえってダメなのかもしれません。場合によっては、思っていてくれる存在がそばにいてくれる、それだけでもいくばくかの救いなのです。

このように、患者が、苦しい自分が承認されていると感じるようになることは、知識や言葉だけではなく、「身体のじぶん」と、そして「身体のじぶん」と「言葉のじぶん」の関係性にアプローチすることではじめて伝わるものです。患者と医療者の接する場面場面の会話や何気ない所作、医療行為からリハビリ、食事、排泄、清拭までにいたるその医療施設のシステムや資源全体への信頼が、このアプローチを実りあるものにする気がします。

不確実なる未来に少しでも確実な「知」を示し「言葉のじぶん」にアプローチすること、それと同時に苦しみそのものはわからないけれども苦しんでいるということ自体に共感すること(「身体の自分」と「言葉のじぶん」の関係性にアプローチすること)。医療の役割は(究極とは言わないまでも)、突き詰めていけばこの2つの側面にまとめられるかもしれません。

3年前のNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」で医師役の世良公則が言った言葉、「医者っていうのはね、そこにいるだけでいいんだ」。このときはさらっと聞き流したのですが、今になって改めて違った深みを持って迫ってくるのです。ただそう考えていくと、頭とか言葉とかスキルとか、そんなのでなく「存在」の問題となってきて、もっと辛いわけではありますが。。。。

最後に、患者の体験にはこのようにいわゆる言語化したり物語化したリできないものがあるようにも思います。あるいはそうした物語化をはじめからしない、できない、したくない患者さんも存在します。その辺のことを考えるといよいよ医療の核心に迫っていくことになりますが(そうでもないか)、それにはもう少し時間を頂戴したいと思います。

$$$ここは兼六園、ではなくて、もと酒造会社にあった庭園です。池に氷が張っていました。
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by dobashinaika | 2015-02-12 00:27 | 医者が患者になった時 | Comments(0)

共病記(10)〜医者が患者になった時〜:若手医師に教えられたこと

今回の入院では、1ヶ月半近くに渡り診療を休んだことになります。その間は、幸いにも出身大学の教室から若手の先生の代診をお願いすることが出来ました。診療の穴をほとんど開けずにすんだことには、出身教室にどんなに感謝してもしきれません。しかし感謝しなければならないのは診療だけではありませんでした。

今現在、患者さんを診るとき、入院中に若い先生方の書かれたカルテを当然見返すわけですが、非常に多くの発見があります。もちろん当院での診療は初めての医師ばかりですので、戸惑いのあとや慣れない感じは言葉のはしから汲み取れはしますが、お世辞ではなくどの医師もSOAPをベースに大変詳しく的確にカルテを記載しているのです。当院はカルテ記載も全部キーボード入力ですが、若い医師ですのでお手のものとはいえ、私の書く分量より明らかに多くの内容が短時間で記載されています。また、診断推論、検査適応なども私の目から見て、的確だなあと思う記載が多いのです。

何より、患者さんの声やスタッフの反応がとても良好でした。もちろん、先輩医師の医院の応援ですので気を使っていたとは思いますが、それにしても今どきの若手の医師は、もちろん多様ではあろうかと思いますが、臨床能力、接遇態度に私たちベテランが見習うべきものを多く持っているように思います。改めて、自分の出身教室(循環器内科)を誇らしく、また大変頼もしく感じました。

今さら言うべきことでもありませんが医学教育は、私たちの時代と比べてだいぶ系統的になっています。CBTはあるOCSEはあるし、また卒後は、教授や(医療機関に依りはしますが)多くの他の医師からピアレビューを常に受ける環境にあります。

翻って、診療所診療の場合、現在多くのいわゆる「開業医医師」は当院も含めて一人診療=ソロプラクティスです。そこに系統的教育システムがない、ピアレビューのシステムがない、この2点は非常に大きな問題であると今更ながら再認識させてもらった、これが今回若手の先生に診療を応援して頂いて一番感謝したいポイントです。

自分としては、学習することは好きなほうで、毎朝、前日に受診した患者さんのカルテを通覧して疑問に思ったことを医学系サイトや文献で調べEvernoteに貼っつけるという作業をここ数年つづけているのと、夜寝る前にひとつの文献を読んでブログにアップしたりはしています。

しかしいずれも一人で行う孤独な作業なんですね。それを検証したり、批判したりするシステムは持ちあわせません。
現在、特に診療所医師の生涯教育という視点で顧みた場合、多くの開業医は同様の状況下に置かれているものと思われます。医学部を卒業して後期研修を終えるまでの数年は非常に系統的組織的な学習ができていたのが、40代、50代で開業した後の2〜30年に渡る非常に長い期間の生涯学習は、そのように行われているとは言いがたい、というのが現状かと思われます。本来は最も系統的継続的なカリキュラムを考えなければならない年代なのに。。

自己流で学習し、新しい知識は製薬企業等の関わる講演会などから取り入れる・・・もちろん主体的に多人数で学習している医師も多くおられるとは思いますが、こういう状況が多少ならずあるように思います。

PBL (Problem Based Learning=問題解決型学習)という方法論があります。言うまでもなく少人数で患者さんの持つ課題に立脚して自ら学習を進めていく方式です。すでに多くの医学教育に取り入れられていますが、将来的に開業医もPBLをベースにした生涯学習ができないものかと思うのです。例えば、私のクリニックの1日の診療の中でも、シンプルな問題の患者さんもおられますが、ご家族、仕事その他の面も含め非常にコンプレックスな問題を抱えた方も多数来られます。開業医の外来はコンプレックスケースの宝の山と言っても過言ではありません。そうしたケースを一人でしまっておかないで開業医仲間で共有できないものだろうか、と開業当初から考えていました。
そのためにメーリングリストなども作ったり、各種勉強会も行ってきましたが、これまでの講演会形式などで果たして良いのだろうかという危機感が、今回の若手の先生とコラボしたことによって急速に芽生えてきました。

モチベーションを共有できる仲間と、それからチュートリアルが必要ですが、色々画策していきたいと思っています。こういう画策は楽しいですね。

$$$今日の散歩道から
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by dobashinaika | 2015-01-25 22:18 | 医者が患者になった時 | Comments(0)


土橋内科医院の院長ブログです。心房細動やプライマリ・ケアに関連する医学論文の紹介もしくは知識整理を主な目的とします。時々日頃思うこともつぶやきます。


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